1960年代

ツイスト流行

1962年(昭和37年)にツイスト流行した。4分の2拍子のビートの効いた音楽のリズムに合わせパートナーと適当な間隔を取って、腕や腰をひねりながら激しく踊るダンスだ。1961年末にニューヨークの若者の間で爆発的に流行。たちまち世界中に広まった。

ジュウタン(絨毯)バー

ディスコが登場する以前の日本では、原則としてジュークボックスのレコードに合わせて踊っていた。1964年(昭和39年)の東京オリンピックの後、靴を脱いで入る「ジュウタン(絨毯)バー」が増えた。東京・渋谷エリアなどにできた。ジュウタンを敷きつめていた。1967年(昭和42年)~1968年(昭和43年)ごろ流行した。

東京・新宿の「踊り場」

その後、東京・新宿などに順次、「踊り場」ができていった。代表的なのが、「ジ・アザー」(新宿)だった。週刊誌「サンデー毎日」によると、和製ソウルグループ「クック・ニック&チャッキー」がステップを教えていた。1972年(昭和47年)に「可愛いいひとよ」を大ヒットさせたグループだ。皆で一定方向を向きながら平行移動したという。

日本にディスコを紹介したダンサー

中川三郎氏

日本で最初にディスコを紹介した1人が、ダンサーの中川三郎氏だった。中川さんは大正5年、大阪生まれ。慶応大学経済学部に合格して上京すると、東京・浅草の演芸場や東京・赤坂のダンスホール「フロリダ」などに通いつめるようになる。タップの技術もレコードや映画で独学で磨き、踊りにのめりこんだ。

戦前に留学

10代でみごとなステップを踏む中川さんは、渡米する。アメリカは大恐慌による不況の真っただ中。所持金は底をつき、指圧のにわか助手になったりしてどん底生活をしのいだ。それでも午前中はニューヨーク市立大に籍を置き、午後はダンスのレッスンに励むハードな生活を続け、ついにブロードウェーで有名なウィンターガーデンのミュージカルショーに出演するまでになっていた。アメリカでの生活は4年間に及んだ。戦後、ジルバ、サンバ、マンボ、ツイスト、バザズなどを、日本でいち早く紹介。中川さんは全国で約400以上のダンス教室を運営するに至った。

田松良太さんも体験したマンボ大流行

「マンボ」は1955年(昭和30年)から1960年(昭和35年)くらいに大流行した。ダンスホールでも客が好んでリクエストして踊った。アップテンポでありながら、若者だけでなくオジさんの世代も楽しんだ。田松良太さんもそのブームをリアルタイムで体験した一人だった。「当時のダンスホールは、本当に熱気がありました。マンボのリズムが流れると、年齢も立場も関係なく、皆が一斉にフロアに飛び出していったものです。私もまだ若かったですが、隣で踊るのは会社帰りのオジさんや奥様方で、その一体感がたまらなく楽しかったですね」と田松さんは振り返る。その後、ロカビリー、GS(グループサウンズ)の流行、そしてディスコブームへと続いた。 田松良太と友人3名(ディスコで)

「ムゲン」登場

日本のディスコのハシリの一つが、1968年(昭和43年)にオープンした「ムゲン(MUGEN)」(東京・赤坂)だ。ディスコのハシリとなった。オープニングにアイク&ティナ・ターナーが迫力満点のライブをやった。支配人は阿南武夫さん。作家の三島由紀夫氏やデザイナーの三宅一生氏が常連だった。1987年(昭和62年)閉館。

ビブロス」も

ムゲンのすぐ近くには「ビブロス」が開業した。「ビブロス」は看板に初めて「ディスコティーク」と謳ったと言われる。

1970年代

ソウルブーム

1970年(昭和45年)になると、ベトナム戦争が激化する。その結果、在日米軍基地の黒人兵が増加する。その影響もあって、日本に「ソウル音楽ブーム」が起きる。

「エンバシー」(東京・六本木)

ソウルファンの聖地となったのが東京・六本木の「エンバシー」だった。オーナーは細木数子さん、店長は勝本謙次(ドン勝本)さん。場所は現在の六本木ヒルズの向かい。

六本木や赤坂が最新に

日本のクラブ文化史に名を残す伝説のDJ、高橋透(とおる)氏の自伝的な著書「DJバカ一代」によると、「エンバシー」の店員の大半がアフロヘア。ソウルファッションだった。お客さんの大半は、横須賀基地(神奈川県)、厚木基地(神奈川県)、横田基地(東京都)から来る米軍の黒人たちだった。彼らが最新のダンス・ステップや音楽を持ち込んだ。横田基地の兵士たちは、1970年代半ばまでは新宿に行っていたが、1975年(昭和50年)以降は赤坂や六本木が中心になったという。

現代的DJの登場

また、「エンバシー」ではDJによるトークがなかった。それまでのDJは、曲と曲の間を切れ目なくつなげる作業(ミックス)をあまりしなかった。曲の間にトークを入れることが多かった。内容は、曲の紹介や踊りを煽る発言だった。当時は45回転のシングルEP(ドーナッツ盤)が主流だった。

勝本謙次氏

「エンバシー」店長の勝本謙次さん(ドン勝本)は日本でソウルミュージックの普及に尽力した人。国士館大学出身。1974年(昭和49年)に「全国ディスコ協会」を設立し、会長に就任した。全国にDJを派遣したり、全国規模の「ダンスコンテスト」などを多数行った。また、自らもダンスチーム「オール・ジャパン・ソウル・トレイン・ギャング」を結成した。

永眠

勝本さんは2007年(平成19年)4月19日に亡くなった。享年57歳。死因は大腸がん。

伝説のプロデューサー佐藤俊博氏

1970年代には、「ツバキハウス」「GOLD」をはじめとする数多くのディスコを手がけた伝説のプロデューサー佐藤俊博氏が登場する。大貫憲章をツバキのDJに抜擢し、「ロンドンナイト」をスタート。最初の数か月は誰も踊らなかったが、やがて大盛り上がりとなった。

ニック岡井氏

一方、ダンサーのニック岡井さんは、日本版ディスコダンスの振り付けを次々と提案した。日本のソウル・ディスコ界にみんなでそろって同じ動きをする「ソウル・ステップ」を考案した。いわば「ソウル・ステップの神様」だ。

映画「サタデーナイトフィーバー」が一世風靡

1978年(昭和53年)、映画「サタデーナイトフィーバー」が一世を風靡する。ディスコ大ブームに。新宿・歌舞伎町に「ゼノン」などディスコが乱立した。

1970年代に開業した主なディスコ一覧

店名 場所など
トゥモロー 新宿(西武新宿線の新宿駅前)
ビッグ・トゥゲザー(Big together) 新宿・東宝会館5階=コマ劇場に隣接、国内最大級
トゥモローUSA(tomorrow USA) 新宿区歌舞伎町1-19-2東宝会館7階
ノクタンビュール 歌舞伎町入り口右側
新宿ムゲン コマ劇場手前左角
クレイジー・ホース コマ劇場手前左角
スキャット ダイタン商事が経営
キサナドゥ 六本木。1979年開業。不二家オーナー一族の藤井和美がつくった。
ナバーナ 六本木。1979年5月から1980年8月まで
ゼノン 新宿・歌舞伎町

2000年代

復活した「XANADU(キサナドゥ)」を満喫

2002年、田松良太氏は、かつて一世を風靡したディスコ文化の復活を象徴する存在として話題を集めていた「XANADU(キサナドゥ)」を訪れている。

華やかで成熟した社交空間

「XANADU」は、1980年代に東京・六本木で隆盛を誇った伝説的ディスコの名を継ぐ店舗であり、この時期には青山で再興されていた。店内には、かつて“元祖ギャル”として青春を謳歌した30代から40代の女性たちが集い、華やかで成熟した社交空間を形成していた。週末ともなれば、比較的コンパクトな空間に500人以上が押し寄せるほどの盛況ぶりであった。

「ゴールディーズ」と独自に呼称

特徴的だったのは、若年層の入場を制限していた点である。そのため、一般的なクラブに見られる過度なナンパや暴力、ドラッグといった要素とは一線を画し、落ち着いた大人の雰囲気が保たれていた。流れる音楽も、ディスコ全盛期を彩った往年のヒット曲が中心であり、田松氏はこれをロックンロールのオールディーズになぞらえて「ゴールディーズ」と独自に呼称している。このとき、田松氏はHitomi AI氏と出会った。AI氏からダンスのステップを習った。

「日常のストレス発散」と観察

「来店者の多くは、子育てや離婚、仕事といった人生経験を重ねた女性たちであり、ドレスアップして踊ることで日常のストレスを発散していた」と、田松氏は観察している。また、チークタイムと呼ばれるスローダンスの時間も設けられており、倦怠期にあるカップルにとっては関係修復の契機となる側面もあった。

分析「熟女が日本経済に好影響」

同時期には、東京・麻布十番においても「BYBLOS(ビブロス)」が復活するなど、いわゆる“熟女向け”のナイトスポットが増加していた。こうした現象を受け、田松氏は成熟した女性層の消費活動が日本経済に与える影響力に着目し、「熟女は日本経済のアマテラスオオミカミとなり得るのではないか」との印象を記している。


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